第1章:小さなキッチンのヒロイン
小学5年生のサラは、夕方になると必ずエプロンを締めてキッチンに立っていた。彼女の母親である奈緒美は、3人の子を持つシングルマザーとして毎日忙しく働いていたが、時折、口にする言葉には、どこか棘があった。
「サラ、あんたってホントにいい子ぶりっ子ね。だけど、実際、助かるわ。私ひとりじゃ絶対無理よ。いい子ぶりっこでも、ぶりっ子してくれてよかったわ。」
奈緒美の言葉には一見感謝が込められているように見えるが、サラにはその裏になんとなくしっくりこないものを感じることがあった。でも、まだ幼いサラには、よく分からなかった。
サラは、料理を作ることが好きだった。理科の実験みたいで、へぇ~こうなるんだーと思う気持ちがあった。
ただ、料理の腕を褒められると、なんとなく、母の都合を感じさせられた。妹や弟も「お姉ちゃんのご飯、美味しい!」と笑顔を見せる。
だが、なぜか、食事の後に待っている皿洗いもサラの担当だった。
夕食の後誰も皿を洗わないので、結局、翌日の夕食前に、サラが洗うことになる。
下の二人の兄弟は皿洗いをするサラを少しも不思議に思わず、TVを見てのんきにくつろいで、「お姉ちゃん、お腹空いた」というのだった。
何年か皿洗いと家事一式を続けたサラは、「私は家族のために生きているの?」という疑問を抱くようになった。
水音とカチャカチャという食器の音が耳に響くたび、サラの中で嫌悪感が増していった。皿を洗うたびに、「自分がここにいる意味は、この皿をきれいにすることなの?」という思いが頭をよぎる。
しかし、子供の生活は忙しく、深く物事を考える間もなく、次から次とやることがあった。
サラは、合理的な現実主義者だった。学校でも優秀だったため役員を引き受けることが多く、学校でも家でも、リーダーシップをとらないといけない立場に立つことが多かった。子供ながらに15分刻みのスケジュールこなしていた。
奈緒美は、帰宅すると大抵ぐったりと疲れている。そこで、サラは奈緒美にコーヒーを淹れるようになった。
「サラが淹れてくれるコーヒーは本当においしいわ」
奈緒美はそう言っていたが…それがどれくらい”本当”なのか、サラには測りかねる気がしていた。
というのは、奈緒美はいつもカップを片手にこう言うのが常だった。
「人が淹れてくれたコーヒーって、ホントにおいしいわ!」
泡でぬるぬるする食器やカチャカチャと鳴る音。相変わらずテレビを見て手伝う気がない弟。まだ幼い妹。何か腑に落ちない感覚。
サラは手を動かしながら心の中で小さな溜息をついた。「なんで私ばっかり…」と思う気持ちは次第に大きくなっていった。
第2章:中学生になったサラ
中学生になったサラは、ますます家事を任されるようになっていた。奈緒美は相変わらず忙しく、疲れた顔で帰宅すると、サラに当たり前のようにこう言った。
「ちょっと、何。なんで玄関の靴がこんなにバラバラで散らかっているのよ!」
サラは、その言葉に不快感を覚えるが、靴を片付けるくらい、たいした労力でない、と思い、仕事で疲れた母と口論になるよりは片付けたほうが早い…と、実を取る作戦で、さっと靴を並べるようにした。
しかし、ある時、奈緒美は、「ちょっと、何これ。なんでリビングの物の配置が昨日と同じなわけ?掃除していないでしょう!」と言い放った。
これには、さすがのサラも呆れて物が言えなくなった。専業主婦がいる家庭だって、リビングの物の配置は、昨日と同じなのが普通だ、と中学生になったサラには、もう見当識ができていたからだ。
サラは学校でも頼りにされ、欠席時に配布されたプリントなどを届けるようなこともをしていた。そうした中でよその家も観る機会が何回かあった。
この母の言動を基にすると、母親の奈緒美は、これまで、サラが子供だったことをいいことに、いろいろと自分に都合の良いように物事を捻じ曲げていたんではないだろうか…?そんな疑いがサラの中に生まれた。
「なによ、その顔」と奈緒美は言ったかと思うと、サラの顔にめがけて、持っていた茶碗を投げた。
これには、さすがのサラも、茫然自失状態になった。
え?今、何が起こったの?
理解を超えた涙があふれた。
奈緒美は打って変わって優しくなり、「ごめんなさい」と何度も謝り続けた…。肝心のサラは、何が起こったのか分からない。そのまま、ベッドに倒れこみ、伏せてしまった。
2段ベッドの上の段に横たわりながら、サラは、一体自分に今何が起きているのだろう…と必死で現実にしがみつこうとした… サラの頬には黒いあざが着いていた。
あした、学校、どうしたらいいのだろう…。こんな顔、人に見られたくない…。いつも人前に立つ立場なのに…。
奈緒美は、シップを持ってきた。「ごめんなさい、これを貼って。本当にごめんなさい」
サラは謝ってももう遅い!と思った。とにかく、どうやって明日を乗り切ったらいいのだろう…サラには見当もつかないのだった。
ある日、サラが部活帰りで疲れているにも関わらず、奈緒美はこう言った。
「ちょっと、サラ、いい加減にしなさいよ、今日はあんたが作ってくれる番でしょ? 」
サラには、受験もあり、部活もあった。部活はキャプテンを務めており、サラが一番必要なのは勉強時間だった。サラは例によって口論するよりは、さっさと問題解決してしまえとばかりに、サクっと夕食を作ると、あとはみんなで食べてね、と言って、自室に引き上げた。宿題が残っていたのだ。
ところが、母親の奈緒美は、猛烈な勢いで、子供部屋のドアを開けると、サラの教科書の上に、サラが立った今作ったばかりの夕食をぶちまけ、そして、サラの髪の毛をわしづかみにすると床を引きづりまわしたのだった…。
結局、サラはこの時もあちこちにあざを作り、虐待、という二文字が、サラの脳裏に今回ばかりはかすんだ…。
サラは8歳から料理している。サラが15歳になった今、妹は11歳、弟は13歳、とサラが家族のために家事をスタートし、料理を始めた年をとうに超えている。それでも、これまで、サラが作り続けてきたのは、そのことにサラ本人も含め、誰も気が付かなったからだった。
この”事件”のあと、サラは、家族と過ごすこと自体を避け、家にいる時間を極力減らすようになった。
第3章:大学生になったサラ
大学で一人暮らしを始めたサラは、自由を満喫していた。実家のように誰かのために料理をする必要もなく、自分だけの時間があった。
しかし、ある日、自炊した後の皿を洗おうとした時、思わず手が止まった。
「また、この感じ…」と、サラは吐息を漏らした。
泡の感触、冷たい水、そして皿が擦れる音。その全てが子供の頃の記憶を呼び起こし、体が固まるようだった。
ヤダ、ヤダ、ヤダ…。ため息をつくサラ。
使った皿は、そのままシンクに溜まり、見るたびに罪悪感が募る。けれど、それを洗う気力が湧かない。サラは自分に問いかけた。「…でも、なんでこんなに嫌なんだろう?」
気力をふるいたてて皿を洗う。サラは、お菓子作りが大好きで、お菓子作りには、汚れ物が一杯でる。いつしか、サラは、『一つのボールで出来る焼き菓子』というレシピブックを愛用するようになった。
第4章:皿洗いの呪縛を越える
ある日、50代になったサラは、大勢の集まりで食事を作る機会があった。
みんなで分担して料理を作り、午後いっぱい使ってお酒を飲みながら、食べた。
そして、食後の皿洗いも自然と分担された。
男友達の一人がこう言った。「サラ、いつも料理作ってくれてありがとう!君作る人、僕洗う人ね!」
その言葉に、サラはハッとした。
あまりにも、「自分が片付けも引き受けなければいけない」と思い込んでいたことに気づいた瞬間だった。
それまで、あまりにもみなが、サラが洗うのが当然だという態度だったのだ。
夫も含めて。
サラってそういう人でしょ、と顔にラベルでも張っているのではないのか?ってくらい当たり前に皆がサラの皿洗いを期待した。
その夜以降、サラは宣言した。
「私、実は皿洗いが大嫌いなの!」
そして、食器洗い機を夫に要求した。
エピローグ:サラの新しい選択
月日が流れ、サラは、大きな食器洗い機を手放した。
サラは、食器マニアだった。
いつしか、このお皿は、あの時のパーティの、この茶碗は九州に旅行に行ったときの皿で、これは川本太郎さんのお気に入りの粉引…と食器に楽しい思い出を見出すようになったのだ。
これらは、休暇で旅行に行った先々で買い集めた大事なもの、だった。
大事なものだから、手洗いでしっかりきれいにしたい、という思いが勝り、気が付けば、サラは、皿洗いをすることが苦痛ではなくなっていた。
あるパーティで、「お料理作った人は、お皿を洗わなくていいルールなんだよ。」と誰かが言った。
その言葉を聞いたサラは、作った人は洗ってもいいし、洗わないでのんびりしていてもいい、そんな風に思った。
そして、そう思った自分に、改めて、気づき、驚いたのだった。
サラは思った。「皿洗いはもはや苦痛ではないし、役割を感じさせない」
それから、サラにとって皿洗いは、苦い記憶ではなく、自ら主体性を取り戻したという成功の象徴となっていった。
サラは、ちょっと気分を切り替えたい、というときに皿を洗い、掃除をする。そんな家事を趣味家事、と呼ぶようになった。
そして、旅先で、窯元に立ち寄ったりと、お皿好き、を自認するのだった。
おしまい。
■ 要約
第1章:小さなキッチンのヒロイン
小学5年生のサラは、母・奈緒美の代わりに家事をこなしていた。料理が好きだったものの、家族の無関心や母の棘のある言葉にモヤモヤを抱えていた。皿洗いをするたび、「私の役割はこれだけ?」と疑問を感じていた。
第2章:中学生になったサラ
中学生になると家事の負担は増え、母の理不尽な言動や暴力に耐える日々が続いた。学校でも忙しく、サラは次第に自分の人生に疑問を抱くようになる。母の期待に応えることに限界を感じ、家にいる時間を減らして自分を守るようになった。
第3章:大学生になったサラ
一人暮らしを始めたサラは自由を楽しむが、皿洗いのたびに過去の記憶がよみがえり、苦しむ。皿洗いがただの家事以上に、トラウマの象徴となっていた。
第4章:皿洗いの呪縛を越える
大人になり、仲間と家事を分担する中で、サラは「自分が全部やらなければならない」という思い込みに気づく。夫に食器洗い機を導入させ、皿洗いの苦痛を解放。
エピローグ:サラの新しい選択
食器が楽しい思い出の象徴に変わり、手洗いを楽しむようになったサラは、「皿洗いは私の役割じゃない」と感じつつ、主体的に行うことができるようになった。皿洗いは苦い記憶ではなく、自由と成功の象徴へと変わったのだった。
■ 心理学的解説
この物語を心理学的に分析する際、いくつかの重要なテーマや心理的要素が浮かび上がります。それぞれについて詳しく解説します。
1. 家庭環境と役割の押しつけ
物語の序盤では、サラが家族内で「世話役」の役割を押し付けられていることが強調されています。母親の奈緒美はサラを「いい子」として扱いながら、その「いい子」さを利用して家事を任せており、実質的にはサラが幼い頃から家庭の責任を負わされています。
- 心理学的視点: これは親が子どもに自分の役割を転嫁する「親役割の逆転(Parentification)」の例と言えます。このような状況下で育つ子どもは、幼少期に責任感を過剰に育む一方、自分の感情やニーズを抑圧する傾向があります。結果として、自己犠牲的な性格や「人の役に立たなければ価値がない」と感じる自己概念が形成されることがあります。
2. 母親の矛盾した態度と心理的虐待
奈緒美の言葉や行動には、表面的な感謝とその裏に潜む批判が混在しています。また、中学生のサラに対する暴力的な行動(茶碗を投げつける、髪を引っ張る)は明らかに心理的・身体的虐待の兆候です。
- 心理学的視点: 母親の態度には、「ダブルバインド(二重拘束)」の要素が見られます。例えば、サラに感謝の言葉をかけつつも、棘のある表現や攻撃的な行動を取ることで、サラはどのように振る舞えば良いのか分からなくなります。これによりサラは、常に自分の行動や存在が母親を満足させられていないという罪悪感や不安を抱えるようになります。
3. 自分の役割への疑問とアイデンティティの形成
物語の中盤、サラが「私は家族のために生きているの?」という疑問を抱く場面があります。これは彼女が自分のアイデンティティを模索し始める重要な瞬間です。
- 心理学的視点: エリクソンの心理社会的発達理論では、サラが思春期に経験しているのは「アイデンティティ対役割混乱」の段階に相当します。サラは家族のための存在としての役割を押し付けられながらも、それが自分の本質ではないと気付き始め、自分の価値や存在意義を再定義しようとしています。
4. トラウマの影響と回避行動
大学生になったサラが皿洗いを避ける場面は、子どもの頃の体験が未処理のままトラウマとして残っていることを示唆しています。
- 心理学的視点: トラウマ体験の典型的な特徴の一つに「フラッシュバック」があります。皿洗いの音や感触が過去の苦痛な記憶を呼び起こし、回避行動として皿洗いを放置するようになります。このような回避行動は、未解決のトラウマが現在の行動に影響を及ぼしているサインです。
5. 癒しと主体性の取り戻し
50代のサラが、自分の皿洗いに対する考えを再構築し、主体的に行動を選択する場面は、心理的な回復を象徴しています。
- 心理学的視点: これは「ポストトラウマ成長(PTG)」の一例です。過去の困難な経験を通じて、自己理解や価値観を見直し、より成熟した視点を獲得するプロセスが描かれています。また、サラが「私は皿洗いが大嫌い」と声に出して宣言することは、自己主張(アサーション)の重要性を象徴しており、抑圧されてきた感情を解放する重要なステップです。
6. 食器への愛情と再解釈
エピローグで、サラが食器を愛するようになる描写は、彼女が皿洗いに象徴される苦痛な記憶を再解釈し、前向きな意味を見出したことを示しています。
- 心理学的視点: これは「認知的再構成(Cognitive Restructuring)」の典型例と言えます。過去のネガティブな経験に新しい意味や価値を見出すことで、感情的な苦痛を軽減し、自己効力感を取り戻しています。
全体の総括
この物語は、「役割の押し付け」や「心理的虐待」といった家庭内での困難を通じて形成されたトラウマが、どのようにその後の人生に影響を及ぼし、最終的にはそれを乗り越えるプロセスを描いています。サラの人生は、「自己発見」「自己主張」「認知的再構成」といった心理学的プロセスを経て、癒しと成長を遂げた一例と言えるでしょう。
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