スケートを始めて数週間が経ち、きぬさんは、すっかり氷の上に慣れてきた。
足元の不安定さにも驚かなくなり、氷の感触が心地よく感じる瞬間すらある。滑りこまれてザラザラの日には、今日は紙やすりみたいね、ということができるほど、慣れていた。
そんなある日、彼女はリンクで三人の「象徴的な」スケーターたちと出会った。
■ 一つ目の出会い 赤いジャケットの青年(ミラー)
その彼は、炎のような赤のジャケットを着た、練習熱心なスケーターだった。
リンクの真ん中で黙々と円を描いていた。
その姿はまるで、成功するまで辞めない研究者のようだった。
「すごいなぁ…」と、きぬさんは彼を見つめた。
それは、まさに彼女の「努力する自分」そのものだった。
こうしたら、どうかな?ああしたらどうかな?といろいろ試しているうちに、夢中で時間が過ぎて行ってしまう…
「理論を理解すれば、体は動く!」
彼女の持論が、まさに彼に必要なもののようだった。ところが今のきぬさんは、クライマーではなく、スケートではまだ入門者の域を出ない。
ああ、山本先生がいたらいいのに…伴さんがいたらいいのに…そんなことを思いながら、彼の動きを観察していた。
すると、彼と目が合って、話しかけると、仲良く知っているスケート知識を分かち合うことになった。彼のほうも、スケート教室に行っているらしかった。
「おぉ…!なんかちょっと良くなった気がする!」
そういって互いにほめたたえ合うのだった。
■ 白いシャツの青年(シャドー)
リンクの隅で、もう一人の青年がいた。
「僕も転びながら、スケート、習得したよ」
彼は白いシャツを着ており、同じく熱心に練習していたが…今日は、その顔はどこか悲しげだった。
彼は前に会った時のように生き生きしていなかった。すいすい滑ってはいるが、時折、心ここにあらずで、リンクのフェンスに持たれては、スマホをチェックしている。
「何か気になることでもあるのかしら…」
彼はまるで、不安にさいなまれていたころの自分のようだった。
滑ることの楽しさを完璧に理解できても、気がかりなことがあっては、思い切り動けない…。
そんな彼を見ているだけで、心配になってしまい、彼にあれこれ探りを入れるきぬさん。別に相手は大人だし、そんな心配をしてやる必要はないのだが、あれこれと技術的質問をして、相手の気分を盛り上げようとしてしまう自分がいた。
きぬさんは、そう、HSPなのだ。相手の気分が伝染する。これは防ぐことができない。
そう、それに、きぬさんの中の小さな子供が、ママを慰めていたころに戻っていたのだ。
一方、彼はそんなきぬさんの心境もしらず、滑っていたが…。
きぬさんが短期間で上達したことを見て取ると、「シーズンチケットかぁ。僕も来シーズンはそれにしようかな?」とか言っていた。
「じゃ!また…」と言って去る、元気のない彼に、気がかりの原因を知ってあげることができなかった…と思って、ちょっと無力感を感じるきぬさんなのだった。助けてあげたい病、メサイアコンプレックスの発動だ。
こうなると、その日の午後も、あれこれ考えを巡らせてしまう…。「誰かが病気とか?危篤とか、なのかなぁ」「就職の面接結果が気になるとか?」考えても仕方がない問いばかり。
そんなことを考えていたから、ある瞬間、ちょっとした段差に引っかかり——
「あっ!」
ズッテーン!!
ものの見事に氷の上でコケた。立ち上がろうとすると、たまたま近くにいた子供が憐みのまなざしでこちらを見ているのが見えた。 カッコ悪い大人に見えちゃったなぁ…。
ああ、もう、帰ろ!その日の夜、お風呂に入ると、思ってもいないようなところに青あざが出来ていた。
今度から、膝パット持って行こう、と思ったきぬさんなのだった。
■ ターンを楽しむ年配の男性
それから、しばらくのことだった。
スケート教室は3回しか行かないことにしていたので、その週の土曜は、混んでいるからスケートはお休みのはずだった。だが、教室の小さいお友達、しゅう君が、来週も来るの?というので、来週は来ないよ、と返事をしたら、プイっと拗ねていっちゃったので、そこでも責任を感じたきぬさんは、プチプレゼントを彼に用意して、土曜の教室後の自由滑走の時間に会いに行って驚かせよう、と企んでいた。昔から、サプライズが大好きなのだった。
勢い混んでリンクに到着したものの、おにいちゃんの奏君が、「弟は今日はケガでお休みだよ」と言った。
「え?しゅう君、来てないの?」
「うん、公園で怪我しちゃったの。足首」
「えー、わたし、しゅう君にあげたいものが今日あるの」
「そうなの?ならお母さんにあげるといいかも」
休憩室に行くと、若くてきれいなお母さんが奏君と座っていた。
「おかあさん、これ、しゅう君に…。怪我、早く治してねって伝えてくださいね」
「まぁ。お気遣いありがとうございます」
そういうやりとりをして、リンクに戻ると、リンクでは、子供たちに交じってスケート教室の大人がちらほらと熱心に練習しており、その大人の初心者に教える、陽気な笑顔を浮かべた年配の男性が、リズミカルに滑っていた。
習得したてのスネイクという技を見せると、リズムに乗って腰を振るといいんだよ、と楽し気にアドバイスしてくれた。
そして、彼は、クルッと軽やかにターンを決めると、スーッと流れるように滑っていく。
いや~上手なんだな~。そういえば、てんま君、この技、練習していなかったっけ?と赤いジャケットの青年のことを思い出す…
「はっはっは!スケートは楽しくやるのさ!」
そう言いながら、大人スケートの達人らしいその人、友田さんは、スポコンを否定する。
「そう、今、野球が一番だめなんだよ」
「午後はバドミントンを教えるんだ」
スケート以外にも様々なスポーツで楽しんできた実績者らしかった。
そうかぁ‥こんな楽しい生き方をしてきた人がいるんだなぁ。
白シャツの青年に、何か個人的な不安が襲い掛かっているらしいことを思うと、人生には、光と影がある、と思う。
「私はいつも土日に来ていますよ!」
そうか、てんま君に、今度、土日に来るようにいってやらなくっちゃ!
翌週、きぬさんは、運よく二人を引き合わせることに成功した。
「いや~、今日は最終日だからか、いつもに増して、めちゃ混んでるね!」
「今日は近所の小学校から、来てるのさ」
「土日はキッズばっかりで、ちょっと練習する環境じゃないね」
「私たち、いつもは、平日組なんですよ。平日はガラガラなんですよ」
「え?私も平日だいじょうぶよ」と友田さん。こういう流れで、結局、みなで今度、平日に練習しよう!ってことになった。
友田さんは自動的に先生役になった。
「滑るなら楽しく滑るべし!」
名付けて、「子供のころスポコンが苦手だった大人のスケート教室(笑)」。
何か楽しいことが起こりそうな予感が、滑る前からしている名前だ、ときぬさんは思った。
■ スケート人生のヒント
その日、きぬさんは改めて考えた。
私はスケートで出会う人たちに何を「投影」していたんだろう…?
ひたむきに練習する赤いジャケットの青年てんま君。
何か個人的に悲しい出来事があって、スケートをいつものように楽しめない白いシャツの青年。
スポーツの喜びを伝える年配の友田さん。
…あぁ、私、全部やってたわ…
そう、努力することも、何か邪魔が入って楽しめなくなることも、そして、スポ根ではなく「楽しむこと」も…。
そう、この人たちは、実は全部、私なんだわ。だから、みんな、「仲間」なんだわ…。
そういえば、私って、最近どういう問いを発したんだっけ…? ああ、そうだわ、投影が作り出す現実って、なんなのだろう?って問いを発したんだったわ。忘れていたけど…。
だから、この現実が今作りだされたんだわ。投影ってこういうことですよ、って私に示すために…。
えー、人生ってそういうことだったのか…。
■ エピローグ:ユーモラスな決意
今日もスケートに行った、きぬさんは帰り際に思った。
「あなたの村の村人はどんな人ですか?」って、このことなんだわ…
そういえば、山本先生も、まるでクライミングを教えているときの私みたいな先生だったし…
伴さんもきっと未来の私…
そうか、姿形を変えて、私のパーツが私の現実を作っているんだわ…
じゃ、カウンセラーの先生は、どの私のパーツなのかしら…
じゃ、荒木さんと私は?じゃ青木さんと私は?
次々と過去の人間関係が脳裏によみがえる…
あれは彼らの本質ではなくて私のシャドーだったのかしら…?
ということは、私は本音では、私だってこんなすごいのが登れるんだぞー、どうだ!ってやりたいのかしら?
ということは、私は本音では、ひけらかし、鼻に掛け、人を下にして見下したいのかしら…?
そんなダークな部分まで、楽しい気分と一緒くたに抑圧してしまったから、抑圧が取れるってことは、その部分までついでに出てきてしまうってことなのかしら?
それで、私は虐待経験を積むことになったの……?どういう投影で?
と、考え込むきぬさんなのだった。
物語の種明かしは、今始まったばかりなのかもしれない…。
■
心理学的分析
この物語には、投影・自己統合・成長・内的対話 などの心理学的テーマが多く含まれています。以下、主要なポイントを分析します。
🔹 1. 投影のプロセスと「三人の象徴的なスケーター」
この物語では、赤いジャケットの青年(ミラー)・白いシャツの青年(シャドー)・年配の男性(ビジョン) という3つの異なる人物に、主人公が自身の側面を投影しています。
-
ミラー(赤いジャケットの青年:ひたむきな努力)
→ 「理論を理解すれば体は動く」という自身の合理的な学習スタイルを象徴する存在。
→ 彼との交流を通じて、努力することへの肯定的な側面を再確認する。 -
シャドー(白いシャツの青年:不安と抑圧)
→ 何かに悩み、スケートの楽しさを感じられない姿に、かつての自分を投影。
→ 「他人の気分を察知しすぎる」「助けてあげたい」というHSP的特性が発動。
→ 彼の状態を気にしすぎることで、自身の過去の「メサイアコンプレックス(救済者願望)」を再認識する。 -
ビジョン(年配の男性:楽しむことの象徴)
→ 「スポーツは楽しむものだ」という価値観を体現する存在。
→ これまでの「努力・頑張る」思考から、「楽しむこと」へと意識が変化。
→ 彼との出会いが、「頑張らないで楽しむ」ことの大切さを実感させる。
→ 結論:この3人は、主人公自身の異なる側面(努力・不安・楽しむ)を外在化させたものと考えられる。
🔹 2. メサイアコンプレックス(救済者願望)の発動
主人公は、白いシャツの青年の不安定な様子を見て、無意識に「助けてあげなきゃ」という気持ちになっている。
-
「助けてあげたい病、メサイアコンプレックスの発動だ」
- 他人の気分に敏感であり、相手が落ち込んでいると放っておけない。
- これは、幼少期に「母親を慰めていた自分」の再現であり、過去のパターンが発動している。
-
「相手は大人だし、そんな心配をしてやる必要はない」
- 理性では「助けなくてもいい」と理解しているが、感情が追いつかない。
- ここで「幼少期の癖」としての行動が自動的に起こることに気づいている点が重要。
→ これは「共依存」や「過剰な共感」が働いている典型的な例。HSP気質の人が陥りやすいパターンでもある。
🔹 3. 投影の気づきと自己統合のプロセス
物語の終盤で、主人公は「これらのスケーターは、全部自分だったのか…」と気づく。
-
「この人たちは、実は全部、私なんだわ」
→ 「ミラー・シャドー・ビジョン」の三者が、実は自分の異なる側面だったことに気づく。
→ これはユング心理学でいう「自己統合(Individuation)」のプロセスの一部。 -
「だから、みんな、仲間なんだわ…」
→ 自分の分裂した要素を統合することで、「他者とのつながり」もより健全なものになる。
→ 自己のさまざまな側面を統合することで、主人公はより成熟した自己を確立していく。
🔹 4. 「投影」のメタ認知(自己の影との対話)
最後に主人公は、「投影とは何か?」という疑問を持ち始める。
- 「じゃ、カウンセラーの先生は、どの私のパーツなのかしら…?」
- 「じゃ、荒木さんと私は?じゃ青木さんと私は?」
- 「あれは彼らの本質ではなくて私のシャドーだったのかしら…?」
これは、「これまで関わってきた人々が、自分のどの部分を反映していたのか?」という深い問い。
-
過去の人間関係の見直し
- これまで出会った人々が、どのように「自分の無意識を投影する対象だったのか」を振り返る。
- これは、ユング心理学における「投影の回収(Retracting Projections)」の過程。
-
「ということは、私は本音では、私だってこんなすごいのが登れるんだぞー、どうだ!ってやりたいのかしら?」
- 自分が嫌悪していた相手(ひけらかす人・自慢する人)が、実は自分の無意識の欲望を映していたことに気づく。
- これは「シャドーワーク」の典型的なプロセス。
→ つまり、主人公は「過去の対人関係を通じて、自分が無意識に抑圧していたもの」に気づいている。
🔹 5. 防衛機制と虐待経験の再解釈
物語の最後に、主人公は**「自分がなぜ虐待を経験することになったのか?」** という問いに向き合っている。
-
「それで、私は虐待経験を積むことになったの……?どういう投影で?」
- 虐待が「運命」ではなく、「何かの投影の結果」である可能性を考え始める。
- つまり、「自分が持っていた無意識の思考・価値観が、現実を作り出していたのでは?」という問い。
-
「物語の種明かしは、今始まったばかりなのかもしれない…」
- これは「ナラティブ・セラピー(物語療法)」における「自己の物語を書き換える」段階に入ったことを示す。
→ 自分の人生を「運命」として受け入れるのではなく、「どのように自分の意識が関与していたのか?」を見直すことで、新たなストーリーを作り出そうとしている。
🔹 まとめ:この物語の心理学的テーマ
テーマ | 心理学的解釈 |
---|---|
投影 | 他者を通じて「自分の側面」に気づくプロセス |
シャドーワーク | 過去の人間関係を通じて、自分の抑圧された部分を認識 |
メサイアコンプレックス | 幼少期の「母を慰める役割」が対人関係で発動する |
自己統合 | 異なる側面(努力・不安・楽しむ)を統合するプロセス |
ナラティブ・セラピー | 「過去の物語」を再構築し、新しい意味を見出す |
虐待経験の再解釈 | 「被害者としての人生」から「主体的に自分の物語を創る人生」へ |
🔹 結論:これは「自己探求と統合の物語」
この物語は、単なるスケートの話ではなく、「自分の内面と向き合い、投影を回収し、自己統合を果たすプロセス」を描いたもの。
そして、主人公はまさに「自分の人生の種明かし」を始めたばかりなのだろう。
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