南の海で、漁師たちが漁に出た。すると予想に反して、大嵐が来てしまった。これまでに経験がないほどの大きな嵐で、長年漁をしていたベテラン漁師もついに海に投げ出されてしまった。仲間たちは彼が落ちたことに気が付かなかったようだった。
ほどなく荒らしは過ぎ去ったが、周囲には誰一人見当たらず、木っ端の一つも浮かんでいない。
彼は完全に大海の中で、孤立してしまったのだった…。
漁師なので泳ぎはうまい。しかし、大海原、泳いでも泳いでも、どこにもたどり着かない。こちらだろうと思う方角に泳いでいるつもりなのだが、見えるのは水平線だけなので、進んでいるのか?それとも、後退しているのか?それすら分からない。島影一つ見えない海。果てしなく続く水平線。360度、ぐるりと見渡しても、見えるのは海の水ばかり。
漁師は、ついに観念した。自分の死を覚悟した。
もはや…ここで俺もお終いなのだな。
そう思って体の力を抜いた。
すると、体はゆったりと大海原に浮かんだ。目に入るのは大きな空。雲の流れ…。
今に俺は死ぬのか? その時はいつだ… 彼の頭によぎるのは、自分の死の瞬間がいつなのかということばかりだった。
そうやって、大海原に浮かんでいると…体が休まり、彼に思考が戻ってきた。
ふと考えると、俺はまだ死んでいない。死んでいないということは、何かに支えられているのじゃないか?何が俺を生かしているのだろう?
彼は自分が浮かんでいる海の水に気が付いた。そうだ、この海の水が、おれを浮かべているのだ。俺は浮かんでいる。今、この瞬間は生きている。
そう思った彼に、遠く天上からお釈迦様がにっこりとほほ笑んだ。
力を抜いた彼は、ただ木っ端のように浮かんだ。海の中には潮の流れがあった。木っ端になったつもりの彼は、潮の流れを感じた。その流れの方法へ泳いでみた。
すると、なんと、島影が見えたではないか。
漁師はたどり着くべき方向を見出し、泳いでは休み、泳いでは休みしながら、島へたどり着き、とうとう生還したそうだ。
おしまい。
■ 大乗仏教の大海の慈悲の喩
ネット検索でどこかにないかなぁと探したのですが、なかなか適切なたとえが見つからず。
というので、自作。
大乗仏教における仏の慈悲というのは、大船に例えられることも多いのですが、アメリカ版のケネス・タナカの解説には、大海の喩がありました。
こちらのほうが個人的に好きです。
たぶん、伝統的に日本人は依頼心が強いようなので、拝んでいれば救われるというスキームが大好きなんですが…拝む=祈る、他力、でそれだけだと、やはり、何か違うような気がしますし、お布施を渡せば救われるという詐欺にも引っかかりやすい気がします。
本来、自分の努力以上のものを望もう、という精神自体が卑しい精神のような気がしますし…。
大海の教えは、
すでにあなたには、仏の慈悲が既に与えられているんですよ、
という自覚を促す教えです。人生が海、泳ぐ意思が生きる意思、に例えられています。つまり、泳ごうとしなくてもいいってことではないですよ、それでも慈悲の力は働いているのですよ、実はあなたは仏様から守ってもらっていますよ、ということを伝える意図を持ったお話です。
■ケネス・タナカ氏の講義テキスト
https://www.gonnenji.com/_files/ugd/4d45aa_4819abe323754bc398a13edb1f503cea.pdf