2026年8月4日火曜日

【再決断】【レジリエンス】泳げないアキちゃんの話の続き

ふっと意識の底…から浮き上がってきたその光景は、幼児期のベビーバスで顔を水につけられたまま放置された記憶、そして、あの日のプールの底で感じた窒息感そのものだった。

うう…苦しい。ママ!助けて!ねぇママってば!

相方の危ういビレイに直面したとき、明子は何も感じなかった。てきぱきと今何をしなくてはならないか、判断し、そのまま合理的判断で上がった。対応としては100点だろう。

しかし…あの相方の様子を考えると、明子の中には、何か釈然としないものがあった。

もっと謝っていいのでは?だって二人とも一巻の終わりになるところだったんだよ?

幼い日に感じた保護者へのいら立ちが時空を超えて重なり合っていたのだ。

明子はベッドの中で深く息を吸い込み、冷たい水をグラス一杯飲んだ。

何アイツ、登れるって言ってたけど、登れてないじゃん。

登らせてやっているのはむしろこっちって話じゃんね。

心臓の鼓動がゆっくりと落ち着いていく。そして、腹が立ってきた。

どこがかっこいいんだ?

あの時、自分は本当に溺れ、死にかけた。そして母親は、赤んぼうの私の恐怖に気づいていなかった。その事実は過去の動かぬ事実としてそこにある。

同じだ。

しかし、ふと明子は気づく。

あの水の恐怖に怯え、水から逃げ回っていた小さな女の子は、もうどこにもいない。
今の私は、好きなところで泳ぐことができる。

もう、3.3メートルの水深のプールですらさほど恐怖心を感じない。むしろ、潜水のほうが難しいと気が付いてしまったからだ。

この事故の前の明子は、自らの足で岩壁を登り、リスクを計算し、不確実な状況の中でも自分の手で安全な支点を作り出すことができる大人だった。

水泳で溺死トラウマですら、乗り越えたのだもの…。

もしかすると、あの日の事故をそのまま人生の決定打として引きずり続ける必要は、もうどこにもないのかもしれない。

明子の冒険は垂直方向だった。山から、雪、雪から沢、沢から異和へと発展してきたのだ。

今は、水の世界へ発展している。もし、あの日のフラッシュバックがなかったら?明子は水の世界へ冒険の翼を広げることなど、考えもしなかっただろう。

だとしても、これは、おかげ、とは言えないわね…と明子はほくそ笑む。

トラウマのおかげだとか、あいつが事故を起こしたおかげとは言えないわ、だって、そもそもトラウマがなかったら、私はもっと早く海を楽しむ権利を味わっていたはずだから。

でも、まぁいいわ。今、たのしく泳げているから。

明子は思う。人生の歯車っていうのは、こんな面白い調子に噛み合っているんだわ。


明子は窓の外の空が白み始めるのを見つめながら、大きく息を吐き出した。


あの時、ベビーバスの底で窒息しかけたことも、小学校のプールで「死んじゃう」と泣き叫んだことも、すべて事実だ。


そして、今日の相方の危ういビレイに腹が立ったことも、自分のなかの正当な防衛反応であり、感覚の現在地を告げる確かなシグナルだ。


明子は、誰かの失敗を埋めるための道具でもなければ、恐怖に支配され続ける無力な子どもでもない。


山や沢を切り拓いてきた足取りはそのまま、今の水泳への探求へとつながっている。


「さてと」


明子はベッドから軽やかに起き上がると、ストレッチをして今日の予定に思いを馳せた。


大きなプールまで運転して、あの3.3メートルの深い水面へ向かおう。


今度はどんな呼吸のテンポを試そうか、プルの軌道はもう少し低く回せるだろうか。


過去の傷や凍結していた記憶は、もう彼女の足を引っ張る鎖ではない。


それは、自分の意思で選んだ冒険の地図の、ほんの一片にすぎない。


明子は微かに口元を緩めると、今日という新しい一日のために、明るい気持ちでキッチンへと向かった。



【再決断】【レジリエンス】泳げないアキちゃんの話の続き

ふっと意識の底…から浮き上がってきたその光景は、幼児期のベビーバスで顔を水につけられたまま放置された記憶、そして、あの日のプールの底で感じた窒息感そのものだった。 うう…苦しい。ママ!助けて!ねぇママってば! 相方の危ういビレイに直面したとき、明子は何も感じなかった。てきぱきと今...