明子は小さい。アキちゃんは水が嫌いだ。
ママはなぜかアキちゃんがお水を嫌がると、いつもがっかりした顔をする。
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うちの明子には、私は申し訳ないことをした。
ベビーバスを使っているとき、うっかり顔を水につけっぱなしにしてしまったのだ。
あれ以来、明子は水を嫌がるようになった。少しでも顔に水がかかると嫌がる。
でも、明子も3歳になった。
もういいかもしれないと子供水泳教室に連れて行ったが駄目だった。
ギャン泣きになってしまう。プールの先生たちにも申し訳なくて、会費はもったいなかったが連れて帰ってきた。
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そして、月日は流れ、明子は6歳になった。
今でも水が怖いらしくて、仰向けで頭を洗ってやっている。もうずいぶん大きい子なのに。
幼稚園ではプールはビニールプールくらいだが、小学校は水泳の授業がある。
明子には私が失敗した負い目があるし、水を怖がっているまま水泳をさせるのもかわいそうだ。私は明子を子供水泳教室に入れることにした。
弟の雄太と妹の幸子も一緒に入れたのだが、楽しそうにしている。
だが、明子だけは頑として水を拒んでいる。
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ママが、私を無理やり泳がせようとしている。
嫌だよう!お水が怖いよう!死んじゃうよう!!ママ、助けて!助けてよう!
(遠くで親が手を振っている絵、子供がピンチだと分かっていない)
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「明子お帰り、プールどうだった?」
私はわざと明るい声で聞いた。
明子はうつむいて何も答えない。何かを深く心に決めたようだった。
その日以降、明子はただ水着を水にぬらしただけで帰ってきた。
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明子は高校生。あー、あの臨死体験の学校水泳と無縁になってせいせいしたわ。
明子は、大人になった。週に、3,4日ほど会社帰りにスポーツクラブに行く。クラブの入り口、正面からは広々としたプールが見えるが、明子にはまったく何の興味もわかない。
「塩素ダメなの、あたし」
お肌にも悪いし、耳に詰まる感覚が嫌いだ。
ジムに入会して12年がたった。明子はそれでもプールを一度も利用したことはない。
ジムのランニングマシンで黙々と汗を流しながら、明子は窓の外、あるいは奥に広がるプールサイドを意識的に視界から外している。彼女にとって、あそこはかつて「死の恐怖」と「親の期待」が交差した、生存を脅かす場所だ。
脳裏に浮かぶのは、弟の雄太が競泳でしごかれていた姿。
真冬のプールにもガタガタと震えながら入らさせられていた。明子は思う。
「雄太、あんたも、あの地獄から逃げ出したらよかったのに。私たちは、親の失敗を埋めるための道具じゃなかったんだから。ね。」
あー、気の毒だったわー。私たちの子供時代。
大人になってあの世界から逃れられ、なんとしあわせなことだろう。そう思った明子は、本日のエクササイズ終了!とマシンから飛び降りるとさっそうとシャワー室に消えた。
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明子はある日、いつものクライミングパートナーとマルチピッチを登っていた。
「ロープ一杯!」と叫ぶ。それでも、ロープが引かれ続けるので、もう支点は作られているもの、と考えて、明子は登り始めた。
しかし、ロープの上がる速度に追い付けない。
5mほど登ってから、明子はコンティニュアスになってしまっている可能性を考え、ロープを固定することにした。
しばらくして、ロープが確実に動かなくなったことを確信してから登り始める。
すると、驚いたことに相方は、照れ隠ししながら、たった1点のボルトにぶら下がっているではないか…。これでは、この1点が壊れたら、二人とも、おしまいだ。
まぁ、今壊れていないんだから…なんとかはなっている。
そう思い、上を見るともう、2.3mで、つきでた岩の見晴らしの良いところがある。そこまではみたところ5.5だ.
「このまま上がりますね」
終了点を解除するより、つるべが合理的だからだが…上がりながら、明子は何かが引っかかると思う。
これ…私どこかで見ていないかしら…?
明子は、どうも確信が持てないが、これはどこかで見たような気がする。
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その後、しばらくして、明子はうなされて目が覚めた。
溺れる…息ができないよ…。「あら!やだ!大変だわ」と焦っている母の声が遠くで聞こえる…。そしてブラックアウト。
ああ…これだったのか。じっとりとした汗をまとっていた。
明子は愕然とする。そしてまんじりともしないまま、夜が明けた。
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解説:
ご指摘の通り、親の視点が「子供のため」という表向きの動機を超え、実は「過去の自分の過失を帳消しにしたい」「罪悪感から解放されたい」という親自身の内面的な欲求(挽回)に基づいている点は、この状況をより複雑にしています。
この「黒歴史の挽回」という観点から、親の心理構造を分析すると以下のようになります。
1. 「贖罪」としての水泳教室
親にとって、かつてベビーバスで顔を水に沈めてしまったことは、親としての責任に対する「拭いきれない過去の汚点」です。子供が水を克服することは、親にとって「私の育て方は間違っていなかった」「あれは過去のこととして清算された」と自己証明するための儀式になっています。明子が水に慣れることは、子供の成長よりも、親の罪悪感の免罪符として機能してしまっています。
2. 子供を「自分自身の投影」として扱う
「明子」という一個の人間を、親の過去の失敗を上書きするための対象物(投影)として見てしまっています。そのため、明子が発する「死んじゃうよう!」という切実な恐怖のサインが、親には「私の失敗を許さないで、いつまでも泣き叫んでいる」という不都合な抵抗として映ってしまいます。
3. 「わかっているのに直視できない」心理
「遠くで手を振っている」「子供がピンチだと分かっていない絵」という描写は、親の認知の歪みを象徴しています。自分の犯した失敗が原因であると自覚しているにもかかわらず、その現実があまりにも重く、自己肯定感を脅かすため、無意識に「見ないふり」をして「無理やり泳がせよう」という強硬な手段に逃げ込んでいます。
4. 悪循環の固定化
親が自身の「黒歴史」と向き合い、謝罪や別の形での信頼回復を図るのではなく、力技で解決しようとするほど、子供は「この人は私の苦しみを見ていない(私の命の危機よりも、自分の顔を立てることを優先している)」と確信するようになります。
その結果、子供が沈黙を決め込み、形式的に水着を濡らすだけの行動をとることは、親の強迫的な期待に対する**消極的な抵抗であり、最終的な心理的断絶の合図**と言えます。
この構造において、親の「挽回」は、皮肉にもその強引さゆえに、修復しようとしたはずの親子関係をより決定的に損なう要因となっているようです。
分析:防衛機制としての「回避」
この後半部分において、いくつかの重要な心理的転換が見て取れます。
「塩素」という合理化: 幼少期に言語化できなかった「恐怖」を、大人になった明子は「化学的な刺激(塩素)への不快感」という合理的かつ論理的な理由に変換しています。これは、他者(親や周囲)から干渉を受けないための、極めて洗練された防衛的な境界線です。
親の「挽回」の空転: 親がかつて「水泳を通じて克服させたかったもの」は、明子の中では「恐怖そのもの」として結晶化しました。親がどれほど「過去をなかったことにしたい」と願っても、明子の記憶と体感の中では、その出来事は「救われなかった危機」として保存され続けています。
弟への共感と脱却: 明子は自分だけでなく、同様に「しごかれていた」弟の姿を客観視できています。これは、かつて「自分だけが親の視線の中で苦しんでいた」という孤独な状態から、兄弟姉妹という共有された過酷な体験を認識し、そこから二人で脱却した(あるいはそう願う)という、新しい連帯の形を示しています。
考察の視点
明子がプールを一切利用しないという選択は、親にとっては「自分の目論見の完全な失敗」を意味しますが、明子にとっては「ようやく、自分の体の主導権を自分で握れた」という勝利です。
親の「挽回」は、明子が自分の意志で「プールのない世界」を選び取ったことで、完全に無効化されました。この結果、親が抱え続けた罪悪感は、明子によって救われることはなく、親自身が引き受けるしかない孤独な重荷として残る構造になっています。
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